「ゴッホ」という名前を聞いたことがない人は少ないのではないでしょうか。
画家フィンセント・ファン・ゴッホの描いた「ひまわり」や「星月夜」などの作品は、今や世界中で愛される名画として知られています。
しかし、その華やかな評価とは裏腹に、ゴッホの生涯は苦難と孤独、そして情熱に満ちたものでした。
一生のうちに売れた絵はわずか1枚。それでも彼は自分の信じる芸術を追求し続けました。
この記事では、ゴッホの生涯や彼の作品たちを振り返っていきます。
また、ゴッホの名作を見ることができる日本の美術館も最後に簡単に紹介しています。
誕生〜幼少期
オランダにて誕生
フィンセント・ファン・ゴッホは1853年3月30日、オランダ南部の小さな村、フロート・ズンデルトに産まれました。
父はプロテスタントの牧師で、幼い頃から聖書に親しみました。
死産だった男の子を除けば、ゴッホは長男であり、2人の弟と3人の妹がいました。
その中でも四歳年下のテオドルス(愛称:テオ)とは、生涯に渡って親交を持ち続けることになります。
少年時代
少年時代のことは多くのことは分かっていませんが、ゴッホは、小さい時から癇癪持ちで、思い通りにいかないと、両親や家政婦などに怒りの感情をぶつけたりしていたため、とりわけ扱いにくい子として見られていました。
1860年(7歳の頃)からズンデルトの学校に通いますが、そんな性格だったため、1861年から1864年まで家庭教師の指導を受けることになります。
1864年2月(11歳頃)にゴッホが、下記の素描を残しており、この絵は、父の誕生日のために書かれたものだと言われています。
11歳の頃から、高い画力を持っていたことが伺えます。
同年10月にゼーフェンベルゲンの寄宿学校に入学します。
1866年(13歳)、ティルブルフにある国立高等市民学校に進学します。
そこで、パリで成功した画家であるコンスタント=コルネーリス・ハイスマンスから絵を学んだと言われています。
しかし、その学校も卒業することはできませんでした。あと1年という期間を残して中退してしまうのですが、その理由は、詳しくはわかっていません。
青年期〜(グーピル商会時代)
1869年7月、16歳になったゴッホは、中学中退後、伯父が営む美術商グーピル商会ハーグ支店に勤め始めます。
そして、1872年の夏、まだ学生だったテオが、ゴッホのところに訪れます。
この直後から、ゴッホはテオに手紙を書き始めることとなり、それ以降、2人の間で手紙のやり取りが始まります。
1873年6月(20歳)、ロンドン支店で勤務することになります。
表向きでは栄転でしたが、実際には伯父のとの関係が悪化したことが一因であると言われています。
この頃、ゴッホは下宿先の娘に恋をするのですが失恋してしまい、孤独感を強めていきます。
その結果、だんだんとキリスト教に強い関心を持ち、聖書に傾倒していきます。
1875年5月(22歳)、パリ本店に転勤になります。
聖書を読みふけるなど、聖書の研究を熱心に行う反面、金儲けだけを追求するようなグーピル商会の仕事には反感を募らせていきます。
ロンドン支店時代の頃から、勤務態度が悪くなったと言われているのですが、1876年4月1日(23歳)、グーピル商会を解雇されてしまいます。
彼にとって、面白くなかったり、上手くいかなかったこともあったかもしれませんが、グーピル商会に勤めていた頃に、レンブラントやフェルメールなどの名作に触れたり、世間ではどのような絵画が売れているのかなどを、自然に学んでいきました。
伝道師を目指すが、挫折…
1876年4月、ゴッホはイギリスに渡り、寄宿学校で子供たちにフランス語やドイツ語を教えたりなど、無給で教師として働くことになります。
その他にも、宗教活動に加わったり、オランダに戻って書店に勤めたりなどしますが、なかなか職が定まりません。
この期間、子供達に聖書を教えたり、自身も様々な教会に通っていく中で、「聖職者になりたい」という気持ちを募らせていきます。
ゴッホの父も聖職者ではありましたが、聖職者になるためには、8年程度の勉強が必要となるため、ゴッホが聖職者になりたいということに対しては、否定的な意見を持っていました。
1877年(24歳)、ゴッホは、「厳しい受験勉強に耐える」と父を説得し、5月にアムステルダムに向かい、アムステルダム大学進学部を目指して勉強を始めます。
2歳年上のメンダル・ダ・コスタから、古典語を学ぶのですが、その複雑な文法や代数、幾何、歴史など、学ぶことの多さに挫折をしてしまいます。
1878年(25歳)、ゴッホは神学部入学のための勉強を放棄してしまいます。
しかし、貧しい人々に聖書を説く伝道師になりたいという思いがあったゴッホは、ブリュッセルに行き、伝道師養成学校で3か月間の試行期間を過ごします。
同年12月、ベルギーの炭鉱町ボリナージュにて、伝道師になるための実習をすることになりました。
ボリナージュでは、炭鉱事故のけが人を看病するなど、献身的に仕事をしました。
しかし、ゴッホは、貧しい人に持ち物を与えては、自らは裸に近い状態で過ごすなど、極端な宗教活動を行ってしまいます。
伝道師協会は、これらの自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとして否定し、ゴッホは、伝道師として正式に採用してもらうことができませんでした。
聖職につきたいというゴッホの夢は、すべて途絶えてしまうことになりました。
芸術家への挑戦
画家になる決心をする
聖職者としての道を断念したゴッホは、1879年8月、クウェムという地域の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住みます。
父親の仕送りなどをもらいながら、スケッチなどを書いて過ごしていたのですが、このことを弟のテオからも批判され、1880年3月(27歳)の頃、北フランスへ放浪の旅に出ます。
そして、ゴッホは最終的にエッテンの実家(1875年〜1882年の間、ゴッホの家族はエッテンの牧場にいた)に帰りました。
しかし、彼の数々の行動を見て、ゴッホを精神病院に入れようとした父親と口論となり、再びクウェムに戻ることになります。
クウェムに戻った頃、風景や周りの人たちをスケッチしていくうちに、ゴッホは、画家になる決心をしていきます。
また、1880年の7月ごろから、弟のテオから仕送りをもらい始めることになります。
ケーに恋をするが、失恋
1880年10月、絵を勉強しようとして、突然ブリュッセルに出ていきます。
しかし、経済的な問題を抱えていたゴッホは、1881年4月(28歳)に、エッテンの実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けました。
ゴッホは、この間、次々と問題を起こしていきます。
同年(1881年)の夏、従姉で未亡人のケーと、散歩などをしているうちに恋をしてしまいます。
ゴッホは、求婚するもケーからは断られてしまいます。
しかし、諦めきれなかったゴッホは、手紙を何度も送ったり、挙句の果てにはアムステルダムにあるケーの実家に押しかけたりもします。
結局、ケーからは会うことを拒否され、彼女の両親からも、しつこい行動が不愉快だと非難されました。
ハーグに移り住む
1881年12月頃、ゴッホは、ハーグに移り住みます。
ここで、ゴッホは、義理の従兄弟で画家のアントン・モーヴ(またはアントン・マウフェ)を頼り、彼から絵の指導を受けます。
モーヴは、親身に指導してくれていましたが、次第にゴッホに対して、よそよそしい態度をとっていきます。
そして、1882年1月頃、モーヴとの関係が壊れてしまいます。
これは、ゴッホが。子連れで身重の娼婦クリスティーヌ(通称:シーン)と出会い。同棲を始めてしまったことが原因であるとの説があります。
ゴッホが残した手紙によると、少なくともゴッホ自身はそのように考えていました。
ゴッホは、しばらくシーンと同棲を続けますが、シーンの家族に悩ませられるようになったり、自分自身の家族から説得されたことで、シーンと別れることになります。
下の絵が、シーンをモデルに描いた「悲しみ」という作品です。
本格的に絵を描き始める
1883年(30歳)、父が仕事のため移り住んでいたニューネンの農村にゴッホも帰省します。
ニューネンの牧師館の一角にアトリエをもらったゴッホは、そこで作品を生み出していきます。
ゴッホは、ニューネン時代になって初めて、習作ではなく、構成画を油彩で本格的に描き始めます。
下の絵は、最初期の本格的な作品として知られる「じゃがいもを食べる人たち」です。
「ひまわり」などのゴッホの作品と比べると、この頃の作品は重く暗い色調で描かれた作品が多いです。
ちなみに、注がれているコーヒーは、ゴッホが送ったものです。
勢力的に作品を制作していたゴッホですが、1885年3月に父が脳卒中により他界してしまいます。
パリでの印象派との出会い
1885年11月、ゴッホは、アルトウェルペンに移り住みます。
しかし、翌年1886年3月(33歳ごろ)、ゴッホは突然夜行列車でパリに向かい、弟テオのモンマルトルの家に転がり込みます。
その時の部屋は手狭だったので、後で2人で引っ越しもしています。
パリでは、テオの協力も得ながら、最新の絵画などに触れていきます。
また、画家フェルナン・コルモンの教室で、ロートレックやエミール・ベルナール、ジョン・ピーター・ラッセルなどとも知り合い、交流を持つようになります。
ちなみに、こちらの記事に印象派について詳しく紹介しているのですが、この頃はモネやルノワールといった印象派の時代から、スーラやシニャックといった新印象派の時代に移り変わっていった頃です。
1886年(33歳)に、最後の印象派展である「第8回印象派展」が開かれるのですが、この展覧会にゴッホは、ロートレックなどを引き連れて観に行っています。
印象派については、もちろん知っていたでしょうが、実際に作品を見たことは、ゴッホにとってかなりショッキングな出来事だったと思われます。
最初期の暗い色調の作品とは異なり、印象派の作品や、点描画法などを用いた作品にもチャレンジしていきます。
また、もうひとつゴッホに影響を与えたのが、日本の美術を理解し、取り入れようとする「ジャポニズム」というムーブメントでした。
日本美術は、ゴッホだけでなく、モネなど他の芸術家にも影響を与えており、西洋絵画にはない大胆な構図や、陰影のない平坦な表現に当時の画家たちは影響を受けました。
下の絵が、江戸時代の浮世絵師、歌川広重の「大はしあたけの夕立」をゴッホが模写したものです。
また、画材屋を営みながら、ゴッホなど貧しい画家の援助をしたジュリアン・タンギーをゴッホが描いた絵の背景には、ゴッホとテオの所有物と思われる浮世絵が描かれています。
ゴッホは、日本美術に触れていく中で、次第に日本への憧れを強めていきます。
アルル時代
パリからアルルへの移住
ゴッホの日本に対する憧れは、どんどん強くなっていき、光に満ちた「日本」を南フランスのアルルと重ねるようになっていきます。
そして、1888年2月(35歳頃)、ゴッホは南フランスへと旅立ちました。
ゴッホがアルルについたのは、まだ冬であり、光に満ちるどころか、雪が降り積もっていましたが、それでも彼はその雪景色を見て、日本のようだと手紙に書き記しています。
そして、彼は、このアルルにいた時期に「アルルの跳ね橋」や「夜のカフェテラス」、「星降る夜」といった、現在多くの人が知っている名作を次々に描いていきます。
また、ゴッホは、日本人のような芸術家同士の共同体を作り上げたいという夢がありました。
ゴッホは、弟のテオに資金援助をしてもらい、黄色い家を借りて、そこに共同体を作ろうとしました。
そして、ゴッホといえば、「ひまわり」の絵が有名ですが、それは、この黄色い家に飾ろうと作成した作品でした。
この黄色い家に数名の画家たちを集めて、その部屋にひまわりの絵を飾ろうとしたのです。
ゴッホのひまわりは、1888年〜1889年頃の間に制作され全部で7枚あります(うち1点は、空襲にて消失)。
そのうち一枚は、なんと東京にあり、SOMPO美術館で見ることができます。
ゴーギャンとの共同生活が始まるが…
ゴッホは、数人での共同生活を思い描いていましたが、実際に手を挙げたのは、画家ポール・ゴーギャン1人だけでした。
参加理由も、参加すれば、ゴッホの弟のテオから資金援助を得られるということが理由でした。
1888年10月、ゴーギャンがアルルに到着します。
この日から、共同生活が始まります。
共同生活が開始した当初は、アリスカンの散歩道を2人で歩いたり、赤いブドウ畑を2人で見に行ったり、共同生活は上手くいっていました。
しかし、個性的すぎる2人の共同生活は長くは続きません。
想像をもとに描くゴーギャンと、自然や人物を実際に見ながら描くゴッホとの間で、2人の軋轢は増していきます。
12月の中旬頃には、ゴーギャンもゴッホも、それぞれがテオに向けて、共同生活が上手くいっていないという趣旨の手紙を送っています。
その後、ゴーギャンとゴッホの2人は、汽車でファーブル美術館を訪れ、一緒にドラクロワやレンブラントの作品について熱い議論を交わし、一時は関係が修復されたように思われましたが、この後の12月23日にあの有名な事件が起こってしまいます。
有名な耳切り事件の発生
1888年、12月23日にゴッホは、精神病の発作を起こしてしまい、ゴーギャンに剃刀(かみそり)を向けます。
ゴーギャンは、無傷でしたが、ゴッホは、自分の耳たぶを切り落とし、馴染みの娼婦のところに送り届けました。
この「耳切り事件」をきっかけに、ゴーギャンはアルルを去ってしまいます。
上の絵を見ると、右耳を切っているように見えますが、ゴッホは鏡を見ながら、この絵を描いたので、実際には左耳を切っています。
居場所がなくなり、療養生活が始まる
アルルに居場所がなくなるゴッホ
「耳切り事件」の後、ゴッホはアルルの市立病院に入院します。
1889年1月に退院し、制作を再開します。
しかし、2月ごろから、「自分は毒を守られている」などの訴えが出現し始め、近所の人が病院に対応を求めたことから、再び病院の監禁室に隔離されてしまいます。
その後、仮退院をしますが、市民たちから、家族が引き取るか、精神病院に入院させるか対応してほしいという懇願書が提出され、ゴッホは居場所を失ってしまいます。
そして、ゴッホは、3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられます。
そんな中、画家のポール・シニャックが、ゴッホに会うためにアルルまで訪れてくれます。
この時、ゴッホのパリ時代とは変わった画風にシニャックは驚き、ゴッホ自身もシニャックにあったことで刺激を受け、絵画制作を再開します。
ちなみに、同年(1889年)の4月18日に弟のテオがヨハンナ(愛称:ヨー)という女性と結婚をします。
サン・レミでの療養生活
いつまでも、病院にいることはできず、黄色い家で生活することもできなくなったため、ゴッホは、居場所を見つける必要性に迫られました。
しかし、1人で生活をする自信がなかったため、1889年5月に、アルルを離れ、自らサン=レミにある精神病院に入院します。
療養生活は、翌年の5月まで約1年間続きました。
病院では、絵を制作することができ、調子が良い時は、病院周辺で制作することもできました。
この頃、ゴッホの作風がガラッと変わり、原色に近い平坦なタッチから、荒々しく、リズミカルで、屈曲した筆致に変わっていきます。
また、ひまわりに変わる新しいモチーフである「糸杉」と出会いました。
また、同年(1889年)6月、彼の名作である「星月夜」も制作しています。
そして、ゴッホが療養中の1990年(37歳)、弟のテオとヨーとの間に息子が誕生します。
甥の名前は、ゴッホと同じフィンセントと名付けられ、テオへの贈り物として、「花咲くアーモンドの木の枝」という作品を制作しました。
少しずつ評価され始めたゴッホの作品
1890年頃から、ゴッホの作品は少しずつ評価されるようになりました。
「メルキュール・ド・フランス」誌1月号に評論家のアルベール・オーリエがゴッホを高く評価する評論を載せたり、1990年3月にパリで開かれたアンデパンダン展に10点の作品を出品(テオが出品してくれた)し、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けていると、テオがゴッホに手紙に書き、送っています。
ゴッホは、生前、絵が一枚しか売れなかったというエピソードは有名ではありますが、ゴッホが画家として活動した期間はたった10年ほどであり、単純に活動期間が短かったため、という見方もあります。
終焉の地オーヴェルへ…
体調が回復してきた1890年5月(37歳)、ゴッホは、画家のピサロと親しい医師ポールガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェールに移り住みます。
上の絵画が、ゴッホが書いたガシェ医師の肖像です。
ゴッホは、亡くなるまでの最後の2ヶ月余りを、このオーヴェールで過ごします。
この2ヶ月の間に「オーヴェールの教会」、「カラスの群れ飛ぶ麦畑」などの作品を残しています。
拳銃自殺を図り、37歳で亡くなる
1890年7月27日、ゴッホは自らの腹に銃弾を打ち込み自殺を図ります。
連絡を受けたテオが、翌日の28日に訪れ、その時は会話もできたとのことですが、7月29日の午後1時30分にゴッホは、息を引き取ります。
※自殺説や他殺説、拳銃はどうやって手に入れたのかなど、様々な疑問が残っており、ゴッホの死の真相はいまだに明らかにされていませんが、今回は一般的に言われている自殺説を紹介させていただきました。
ちなみ余談ではありますが、筆者は広島県に住んでいます。
ゴッホの最晩年の作品である「ドービニーの庭」という絵が、2枚あるのですが、そのうちの一枚がひろしま美術館に展示されています。
ゴッホは、1890年7月29日に亡くなるのですが、この作品は同月7月に制作されています。
広島を訪れた際は、ぜひ見に来てください。
まとめ
今回は、フィンセント・ファン・ゴッホの生涯をまとめて紹介させていただきました。
画家として活動したのは、たったの10年程度でしたが、その時間は非常に濃密なものであったと、筆者もこの記事を作成しながら感じられました。
日本で、ゴッホの名作に触れたいのであれば、東京のSOMPO美術館の「ひまわり」や、広島県のひろしま美術館にある「ドービニーの庭」がおすすめです。
また、Pen BOOKSの印象派の本は、ゴッホや他の画家などについて、非常に分かりやすくまとめられているのでおすすめです。
気になったら、読んでみてください。