印象派の画家の中でも、特に人気の高いクロード・モネですが、その一生は、どのようなものだったのでしょうか。
この記事では、モネの幼少期や青年期、印象派グループとしての活動、晩年の制作活動など、モネの生涯について、紹介させていただきます。
モネの幼少期と家族たち
モネの幼少期やモネの家族について、紹介させていただきます。
モネの生まれた場所と家族
クロード・モネは、1840年11月14日にフランスのパリ、ラフィット街45番地に生まれました。
父は、クロード・アドルフ・モネ、母は、ルイーズ・ジュスティーヌという人物です。
1845年、モネが4〜5歳の頃に、彼らの家族は、ノルマンディー地方のル・アーヴルという地域に移住しました。
モネの父は、若い頃に船員見習いとして働いていましたが、モネが生まれた時の職業は不明であり、経済的な理由から異母姉のマリー=ジャンヌ・ルカードルを頼って、ル・アーブルに移り住んだと考えられています。
ル・アーヴルは海に面した港町で、この地の風景が後のモネの作品に多大な影響を与えることとなります。
モネは二人兄弟の次男で、兄のレオン・パスカル・モネがいます。
風景画家 ウジェーヌ・ブーダンとの出会い
1851年、モネが11歳の時、モネは公立のコレージュ(中学校)に入学します。
1857年、17歳の時に、モネの母親が亡くなります。
モネは同じ頃、コレージュを退学し、本格的にカリカチュアを売り始めます。
カリカチュアとは、人物の性格や特徴を際立たせるために、誇張して描く人物画のことです。
こちらが、モネが描いたカリカチュアです。
モネのカリカチュアは、1枚20フラン(約2万円)くらいの価格がつけられたそうで、結構、儲かっていたそうです。
1858年、18歳の時、カリカチュアを置いていたお店の主人の紹介で、風景画家ウジェーヌ・ブーダンと出会います。
モネは、ブーダンとともに、油絵の戸外制作を始めます。
ちなみに、こちらがブーダンの絵画です。
ブーダンは、空や海を描くのが得意な画家で、モネに外の光の魅力を教えました。
1859年の春、モネは画家になることを父に反対されますが、カリカチュアを売った資金で、パリに行きたいと父に伝え、許可をもらい、パリへと旅立ちます。
パリへの到着と、サロンへの挑戦
では、19歳になったモネがパリ到着してからと、サロンと呼ばれる展覧会への挑戦についてを、説明します。
19歳のモネ、パリに到着
1859年、モネは19歳の時に、パリに到着します。
1860年、20歳の時に、自由に描くことを求めて、アカデミー・シュイスで学び始めます。
ここで、印象派の画家仲間となる「カミーユ・ピサロ」と出会います。
1861年、21歳の時に徴兵により、アルジェリアへ向かいます。
しかし、1862年、22歳の時、病気(チフス)にかかり、ル・アーブルに一度戻り、ここで、モネの二人目の師、オランダの画家「ヨンキント」と出会います。
モネは、ヨンキントについて、「私の眼について、決定的な教育をしてくれた」と、後年語っています。
同年秋、パリに戻ったモネは、シャルル・グレールという人物のアトリエに入ります。
ここで、印象派の仲間となる「オーギュスト・ルノワール」、「アルフレッド・シスレー」、「フレデリック・バジール」と知り合います。
厳密に言えば、バジールは、印象派の展覧会の前に戦死してしまうのですが、初期の印象派の画家を支えた重要な人物です。
サロンへの挑戦
シャルル・グレールのアトリエは、1864年初頭に閉鎖されることになり、モネたちは、自分たちの力でサロンを目指すことになります。
彼らの中では、比較的裕福だったバジールのアトリエで制作を始めます。
1865年、25歳の時、モネは、サロンに2つの作品を出展し、どちらの作品も入選します。
1866年、26歳の時、後に妻となる恋人カミーユをモデルにした、「緑衣の女」と、もう一点の作品が、サロンに入選しています。
この時、印象派の父とも呼ばれる「エドュアール・マネ」と出会います。
マネは、「草上の昼食」。という作品など、これまでの伝統的な約束事にとらわれない作品を発表しており、スキャンダラスな作品を残しました。
順調な滑り出しを見せたモネでしたが、1867年、27歳の時、満を持して出品した「庭の女たち」という作品が、落選してしまいます。
翌年の1868年は、かろうじて「ル・アーブル港を出る船」という作品が入選しますが、1869年・1870年と落選し続けました。
ちなみに、1870年に出品した「ラ・グルヌイエール」は、前年にルノワールと一緒に制作をしていることで有名な作品です。
こちらは、モネの「ラ・グルヌイエール」です。
下の絵は、ルノワールの「ラ・グルヌイエール」です。
同じ景色をテーマにしていても、モネは水面、ルノワールは人物にフォーカスした作品を残していて、面白いですよね。
詳しくは、こちらの記事で書いているのですが、これらの絵は筆触分割という技法で描かれており、当時では新しい技法で描かれています。
このような、新しい取り組みに対し、サロンは否定的で、モネの仲間たちは、相次いで落選することになります。
このことがきっかけで、彼らは、グループでの展覧会を開催することを考え始めます。
1870年、30歳の時にカミーユと結婚しますが、その1ヶ月後、普仏戦争が勃発します。
モネは、徴兵を逃れるため、妻子と一緒にロンドンへ行きます。
この時、シャルル・グレールのアトリエで知り合った、画家仲間のフレデリック・バジールが、普仏戦争で、戦死してしまいます。
印象派の始まり
ここから、モネたちのグループは、印象派のグループとして、グループでの展覧会を開催していきます。
そのことについて、説明していきます。
ポール・デュラン=リュエルとの出会い
1871年の末、31歳の時、モネは、フランスの混乱が落ち着いてきたタイミングで、パリの北西10km離れたセーヌ河沿いの町、アルジャントゥイユに移り住みます。
そして、ロンドンに滞在していたときに知り合った、画商のポール・デュラン=リュエルに作品を買ってもらい始め、経済的に少しずつ余裕が出るようになってきます。
1873年、経済的に少し余裕の出たモネでしたが、この年に恐慌が発生し、作品を買ってくれていた、画商ポール・ドュラン=リュエルの事業も落ち込み、モネへの支援が困難な状態となりました。
モネたちは、サロンに頼らない作品の発表方法を求め、再びグループによる展覧会の計画を進めていくことになります。
第1回 印象派展の開催
1874年、34歳の時、モネと仲間たちは、「画家、版画家、彫刻家等芸術家による共同出資会社 第1回展」を開催します。
この展覧会が、後に「第1回印象派展」と呼ばれます。
モネが、出品した作品がこちらです。
この絵は、「印象、日の出」という作品で、故郷のル・アーブルの港を描いています。
現代の感覚で言うと、そんなに違和感のない作品ですが、当時は絵の筆触を残すような描き方は、伝統的な技法と異なるため、あまり良く思われていませんでした。
そのことにより、批評家のルイ・ルロワに「印象?確かに私もそう思った。この絵は、単なる印象でしかない。この絵よりも、作りかけの壁紙の方がましだ。」と酷評されてしまいます。
このような記事をきっかけに、印象派という言葉が定着していきます。
「印象派」という言葉は、昔は悪口だったんですね。
この第1回印象派展は、観客数は、3500人を超えましたが、作品の売れ行きは悪く、成功とは言えないものでした。
第2回・第3回 印象派展
1876年、36歳の頃、第2回印象派展を仲間たちと開催します。
モネは、この展覧会で、「ラ・ジャポネーズ」と「散歩、日傘をさす女性」いう作品を出展します。
ちなみに、これらの作品は、妻のカミーユがモデルとなっています。
1877年、第3回印象派展では、「サン・ラザール駅」という作品を出展しています。
最大のパトロンの破産と引っ越し
第3回印象派展と同年の1877年、モネの最大のパトロンであった、実業家エルネスト・オシュデが不況のあおりを受けて、破産してしまいます。
このことをきっかけに、モネ自身も苦しい生活を余儀なくされます。
そして、1878年1月にアルジャントゥイユを去り、パリに一時滞在した後、8月にヴェトゥイユに移り住みます。
ここで、モネの人生の奇妙な点なのですが、ヴェトゥイユには、自分の妻と子供だけでなく、破産したオシュデ夫妻と6人の子供達と移り住んでいます。
第4回印象派展以降、モネは不参加に
1879年、モネが39歳の頃、第4回印象派展が開催されます。
この頃、サロンに出展するかどうかを巡って、同じ印象派グループの仲間であった、エドガー・ドガと、他のメンバーたちとの軋轢が深刻となってきます。
グループ内の不和により、第4回印象派展は、ルノワールやセザンヌ、シスレーといった画家が参加を辞退しています。
モネも生活が苦しかったことを理由に、不参加を決意しますが、作品はカイユボットという画家が、「モントログイユ通り」などの作品を代わりに出品しています。
この第4回印象派展の出展以降、モネは、第5回、第6回の印象派展には、不参加となります。
印象派展、不参加中の1880年、モネは、10年ぶりにサロンに出展し、入選しています。
妻カミーユの死
第4回印象派展と同年の1879年9月5日、妻カミーユが32歳の若さで死去します。
上の作品は、「死の床のカミーユ・モネ」という作品で、カミーユの死顔を見ながら、無意識に筆を取っていたと、後年のモネは語っています。
また、この頃、同居人だったエルネスト・オシュデが仕事でパリに行ってしまったことによって、オシュデの妻アリスと、アリスの6人の子供、モネの2人の子供と生活することになります。
そして、モネとアリスは、関係を深めていくことになります。
妻カミーユが亡くなった翌年1881年に、モネはポワシーに移り住みました。
第7回 印象派展への参加
1882年、モネが42歳の時、第7回印象派展が開催されます。
モネは、第5回、第6回の印象派展には、不参加でしたが、この印象派展では、立ち上げメンバーのモネ、ルノワール、シスレーが再び出展を行っています。
これが、モネにとって、印象派展への最後の出品となります。
1886年に最後の印象派展、第8回印象派展が開催されますが、この展覧会にモネとルノワールは参加しませんでした。
印象派展以降のモネ
モネが最後に参加した印象派展、第7回印象派展以降のことについて、話していきます。
ジヴェルニーへの移住
1883年、43歳の頃、モネはジヴェルニーに移り住みます。
この後、モネはここジヴェルニーで生涯暮らしていくこととなります。
そして、この年の12月、モネはルノワールと一緒に南仏旅行に出かけています。
ニューヨークでの印象派展
1886年、モネが46歳の時、画商のデュラン=リュエルが、ニューヨークにて印象派展を開催します。
モネは、このニューヨークでの印象派展について、否定的な考えを持っていましたが、結果的にこの展覧会は、成功することとなります。
このことをきっかけに、デュラン=リュエルの事業は立て直され、モネは経済的に安定するようになります。
積みわらの連作に着手
1888年から、積みわらをテーマに、彼の代名詞でもある「連作」を作成していきます。
連作とは、下の画像のように、同じテーマをモチーフに、季節や時間、天候の違いを描く手法です。
その後の1889年、モネが49歳の時、ロダンと共に「モネとロダン展」を開催しています。
ちなみに、ロダンは、日本でも良く知られている「考える人」を制作した人物です。
1890年、50歳の時、モネは借家だったジヴェルニーの家を購入し、再び積みわらの連作の制作を始めます。
積みわら以外のモチーフの連作の制作&再婚
1891年、51歳の時、パトロンであったエルネスト・オシュデが亡くなります。
同年、モネは「ポプラ並木」を主題とした連作に取り掛かります。
1892年、52歳の時、前年に夫エルネスト・オシュデが亡くなったアリス・オシュデと再婚します。
この年に、「ルーアン大聖堂」の連作に着手します。
この頃には、大家としての名声が確立されてきていました。
1893年、53歳の時、ジヴェルニーの家に隣接する土地を購入し、庭園に池を造る計画を進めていきます。
そして、この庭園は、「水の庭」と呼ばれ、モネの睡蓮の絵の舞台となっていきます。
晩年の制作活動
モネは、86歳で亡くなってしまうのですが、59歳の頃から、睡蓮を主題とした作品をいくつも作成していきます。
本格的に睡蓮の連作づくりに取りかかかる
1899〜1900年、59〜60歳の時、本格的に睡蓮の池を主題として、連作を作成していきます。
1908年、68歳の時、モネに視力悪化の兆候が現れ始めます。
モネの睡蓮の連作は、1899年〜1900年までの第1シリーズ「睡蓮の池」と、1903年〜1908年までの第2シリーズ「睡蓮」の2つに分けることができます。
上の二つの作品をご覧ください。
第1シリーズでは、太鼓橋が描かれ、うっそうと茂草が描かれています。
それに対し、第2シリーズでは、池の水面やそれに反射する陽の光や柳の影などが、描かれる対象となってきます。
家族の死と睡蓮制作の再開
ここから、モネに不幸が重なります。
1911年、モネが71歳の時に妻アリスが死去。
1912年、モネが72歳の時、白内障との診断。
1914年、モネが74歳の時、長男のジャンが死去。
モネは、 白内障による視力の低下が原因で、一時は絵の具の色も判別できないほどの状態に陥ります。
また家族の不幸も重なり、 モネは絶望に陥りますが、悲しみを乗り越えようと1914年に本格的に制作を再開し、自身が亡くなる1926年まで、睡蓮の制作を続けました。
絵の具の色もわからないという絶望の中、モネは多くの作品を引き裂いてしまったため、1909年〜1914年の作品は、あまり残っていません。
大装飾画の作成
1915年、モネが75歳の時、睡蓮の「大装飾画」の作成のため、第3のアトリエを建設します。
モネが、大装飾画を描き始めた時は、用途は決まっていませんでしたが、第1次世界大戦が終了した1918年の11月にモネは、友人であったフランスの首相クレマンソーに、「フランスの勝利を記念して、国家に装飾的なパネルを寄贈したい」と申し出ています。
当初は、ロダン美術館に作品を取り付ける計画でしたが、費用の問題などで困難となり、オランジュリー美術館で展示されることで合意することとなりました。
1921年、モネが81歳の時、松方幸次郎が、モネに会いにジヴェルニーに訪問しています。
松方幸次郎は、日本の実業家であり、美術品収集家としても知られています。
松方幸次郎が集めた美術品は、「松方コレクション」として知られており、後に東京の国立西洋美術館の基礎となりました。
1923年、83歳の時、モネは白内障の手術を受けます。
当時の白内障の手術は、苦痛を伴うため、この頃まで、モネは手術を先送りにしていました。
手術の結果、ある程度視力は回復しました。
1926年 12月5日、モネは86歳の時、ジヴェルニーの自宅で、肺硬化症のため、その生涯に幕を閉じました。
モネが亡くなる間際まで、手を加え続けていた大装飾画は、モネの死から半年後の1927年5月に公開されることとなりました。
まとめ
この記事では、印象派の画家、クロード・モネの生涯についてを説明させていただきました。