美術展などで、「印象派」というキーワードをしばしば耳にすることがあると思うのですが、そもそも印象派とは何なのでしょうか?
印象派とは、「19世紀末のフランスで起こったアートの一大ムーブメント」のことを指します。
絵画にそんなに詳しくない人でも何となく聞いたことがある、「モネ」、「ルノワール」などの画家もこの印象派と呼ばれる芸術活動の中心にいた人物です。
この記事では、印象派という言葉の意味を解説した後に、印象派の絵画の特徴や、印象派の画家たちの特徴などを簡単に分かりやすく解説していきます。
印象派について知りたい方には、こちらの本もおすすめです。
印象派とは?
冒頭でも軽く触れましたが、印象派とは、「19世紀末のフランスで起こったアートの一大ムーブメント」のことを指します。
アートや芸術と聞くと、どうしても「センス」や「感覚」で描くことを想像してしまいがちですが、意外にもその時の時代の流れであったり、当時の常識に対する反発などから、新たなスタイルが生まれてくるのがアートの世界です。
感性を爆発させて、絵を描くような印象がありますが、いろいろ考えて描かれているんですね。
印象派も、その時代の流れや反発などから生まれたムーブメントの一つです。
後でも説明しますが、印象派の特徴として、「外で描いた明るい絵」「荒いタッチで描いた絵」というものなどがあります。
現代人の感覚でいうと「え?それだけ?別に普通じゃない?」と思うかもしれませんが、当時の感覚でいうと、かなり斬新なものであり、すぐには受け入れられず、酷評されることもありました。
では、印象派が生まれたのは、どのような時代だったのでしょうか?
印象派が生まれた時代背景と美術的価値観
では、印象派が誕生した19世紀後半のフランスの時代背景や美術的価値観について説明していきます。
時代背景や美術的な価値観と聞くと、難しそうな印象で拒絶反応を起こしてしまいそうになりますが、なるべく噛み砕いて説明して行こうと思うので、我慢して読んでいただけたら幸いです。
最終的に、「印象派の芸術家たちが、それまでの常識を覆した」という話になるので、この時代背景を知ることで、印象派の画家たちが何をしたのかを、より深く理解することができます。
それでは、説明していきます。
それまでは、サロンが唯一の発表の場だった
印象派が活動を始めた19世紀後半は、サロンが画家の作品を発表する唯一の場所でした。
サロンとは、当時のフランスで権威を持っていた芸術家組織「フランス王立絵画彫刻アカデミー」が主催した展覧会のことです。
現代では、グループで集まって私的な展覧会をしたり、個展を開いたりなどが当たり前のことですが、当時は、ほとんどサロンしか作品発表の場がありませんでした。
このアカデミー主催のサロンが、かなりの権威を持っていました。
サロンに展示するには、審査員による審査を通過する必要があり、サロンに展示され評価をされることが、画家の価値を決める時代でした。
つまり、サロンで評価されると、富裕層などのパトロンがつくという流れが主流であったため、アカデミーに認められなければ、絵でご飯を食べることが難しい時代だったということです。
そのような時代の中で、印象派の代表的な画家である「モネ」、「ドガ」、「ルノワール」たちは、そのことに疑問を持ち、「サロンとは異なる芸術的な価値を世に問う」という理想を元にグループ展を開くなど活動をしていきます。
グループで展覧会を開くのですが、当時では画期的なものでした。
余談ですが、その信念をみんなが貫き通せたかというとそうではなく、ルノワールなど一部の画家は、後々、経済的な貧しさからサロンへの出展に挑戦することになります。
このことで、印象派のメンバーであるドガと揉め事が起きたりもします。
描くテーマによって、優劣の序列があった
これも、今となっては信じられないのですが、アカデミーが決めたルールによって、絵のテーマによって優劣がつけられていました。
描くテーマによって、素晴らしい絵と、そうではない絵が決められていたんですね。
次のような序列になります。
- 歴史画
- 肖像画
- 風俗画
- 風景画
- 静物画(テーブルの上のリンゴとか止まっているものを描く絵)
つまり、聖書や神話などを描いた「歴史画」が最も優れた絵画であり、風景画や静物画は、最も低俗なものと評価されていました。
パリの近代化と印象派が選んだテーマ
印象派が、グループとして活動し始める少し前の1800年代半ばまでのパリは、感染症のコレラが蔓延していたり、路地なども不衛生であり問題視されていました。
1853年に、上下水道を整備したり、新たな広場や大通りを作るなどの大規模な都市計画が行われ、パリは清潔で近代的な街へと生まれ変わります。
印象派の画家たちは、近代化されたパリの「駅」、「カフェ」、「オペラ座」、「広場」「郊外(鉄道ができて郊外にも行けるようになった)」などをテーマにして、作品を作っていきます。
印象派の絵画の特徴
では、印象派と呼ばれるモネやルノワールなどのグループは、一体どのような特徴の絵を描いていたのでしょうか?
外の光を描くということとと、その瞬間を捉えるということがキーワードになってきますので、そのあたりも意識しながら、読んでみてください。
外の光を描く(戸外制作)
「印象派の人たちは、なんと、外に出て絵を描いていました!」
と言うと、冒頭でも少し触れたように「え?普通じゃん。」と聞こえてきそうですが、当時では画期的なことでした。
というのも、1840〜50年ごろにチューブ絵の具が誕生し、発売されるまでは、自宅やアトリエなどの屋内で絵画を制作するのが普通でした。
絵の具を持ち運ぶとしても、「自宅で作った絵の具を豚の膀胱に入れて持ち運ぶ」という方法が主流でした。
豚の膀胱というパワーワード…。
それが、チューブ絵の具の誕生により、気軽に外で絵を描けるようになったのです。
屋外の光に魅了された印象派の画家たちは、光というテーマも取り入れながら、目の前にあるその瞬間を逃さないように絵画を制作していきました。
タッチが粗い(筆触分割)
印象派が活躍するまでの絵画は、下の絵のように肌が陶器のようにツルツルとしているものがほとんどであり、そのような絵の方が評価をされていました。
ほぼ同時期の1863年にサロンで高い評価を受けた、アレクサンドル・カバネルの「ヴィーナスの誕生」という作品です。
それに対して、印象派のルノワールの下の絵は、荒いタッチで肌が表現されていて、色を混ぜずに画面に並べて置いていくようなタッチですよね。
この、ひとつひとつの筆触が隣り合うように描く技法を「筆触分割(ひっしょくぶんかつ)」といいます。
この筆触分割は、人の肌だけではなく、背景や風景にも取り入れられています。
上の絵の背景も荒々しいですよね。
このタッチの荒さは、光やその時の瞬間を捉えるために、スピーディーに絵画を描くことが必要があったことが理由です。
丁寧にムラなく、ツルツルに描いていたら、陽が沈んだりして、自分が見た瞬間を捉えることができないですよね。
しかし、この筆触分割という技法が、世間にすぐに受け入れられたかといえば、そうではありません。
例えば、上で紹介した、ルノワールの「陽光の中の裸婦」なのですが、現代の僕たちがみてもそんなに違和感がないですよね?
しかし、「人物画の肌はツルツルで滑らかであるべき!」と考えている当時の人の価値観からするとそうではありません。
肌に葉っぱの緑の光が映っていることを筆触分割で表現したりしているのですが、当時の人からは、「緑色や紫色がかった斑点だらけの肉体」などと酷評され、すぐには受け入れられませんでした。
明るい色彩表現
印象派の画家たちは、自分が見た瞬間を描くことを大切にしていました。
ですので、絵の具を丁寧に混ぜ合わせたりはせず、先ほど伝えた筆触分割という技法で、原色のままキャンバスにどんどん色を塗り、その一瞬の光を捉えようとしました。
その結果、印象派の画家たちの絵は、明るい色彩表現となりました。
どういうことかというと、下の絵をご覧ください。
従来の絵は、上のイラストの左側のように絵の具を混ぜて色を作っていました。
例えば、黄色と緑を足すと黄緑ができることは、容易に想像できると思うのですが、この方法は色を合わせれば合わせるほど、色が暗くなってしまうという特徴があります。
それに対し、印象派の画家が使っていた筆触分割という技法は、上のイラストの右側のように、黄色と緑を並べて配置すると、脳が黄緑色と認識して色を判断するという方法なので、絵の具を混ぜなくても黄緑を表現することができます。
つまり、色を混ぜずに黄緑色ができるので、明るい黄緑を表現することができます。
ちなみに、こちらが印象派より前の時代のコローという画家の作品です。
印象派の画家の絵よりも暗い印象ですよね。
この暗さは、絵の具を混ぜるという特徴だけでなく、当時は見たままを正確に再現することに重点が置かれていたことも理由です。
印象派の時代になると、再現するだけでなく、自分が感じた印象を表現する時代に移り変わっていきました。
テーマは、今を生きる人々や風景
「パリの近代化と印象派が選んだテーマ」で、すでにお伝えしていますが、それまでの絵画で題材とされた神話などではなく、産業革命によって近代化したパリの「駅」、「カフェ」、「オペラ座」などが題材として選ばれました。
また、鉄道が作られ、郊外にも出かけることができるようになったため、郊外での「レジャー」も題材として選ばれました。
日本ブームの影響
当時、ジャポニズムと呼ばれる日本ブームが巻き起こりました。
これは、1867年にあったパリ万博に、日本が初めて参加したことがきっかけです。
浮世絵の色彩や、現実にとらわれない画風や構図が一世を風靡し、当時の画家たちに大きな影響を与えました。
日本の絵画が、当時の印象派の画家たちに大きな影響を与えたことを知ると、日本人として誇らしい気持ちになりますよね。
印象派の主要な画家たち
では、印象派と呼ばれるグループの画家たちを簡単に紹介していきます。
クロード・モネ
モネは、印象派の中心人物として知られています。
光や水の表現が得意な画家です。
睡蓮の絵なども、有名ですね。
ピエール=オーギュスト・ルノワール
ルノワールも、印象派の中心的人物の一人です。
モネや後から紹介するピサロなどが、風景を好んで描いたのに対し、ルノワールは人物画(特に女性)を好んで、題材にしました。
エドガー・ドガ
ドガは、他の印象派の画家たちとは異なり、筆触分割などの技法は取り入れず、戸外制作もあまり行いませんでした。
室内で、バレエダンサーの姿を好んで題材にし、描く画家でした。
思ったことをはっきりという性格だったため、印象派展に関して、しばしば他のモネ、ルノワール、シスレー、セザンヌと対立することになります。
ポール・セザンヌ
セザンヌは、後に「近代絵画の父」として評価されていきますが、最初から順風満帆だったわけではありません。
印象派グループと共に活動を開始しますが、パリでは評価を得られず、故郷に戻り孤高に制作活動を続けます。
偉大な画家に対して、失礼なことを言うのですが、上の静物画を、僕たち素人が見ると、チェリーは皿ごと落ちてきそうだし、布は硬そうだし、お世辞にも上手とは思えない絵ですよね。
難しい理屈などは今回は割愛しますが、この斬新さが後に、ゴーギャンやピカソといった芸術家に影響を与えていきます。
これが、近代絵画の父と呼ばれる所以です。
カミーユ・ピサロ
ピサロは、印象派のグループの中における「兄貴分」のような存在で、人望が厚く、印象派グループのまとめ役でした。
印象派展が、全部で8回あったのですが、ピサロはその全てに参加しており、唯一の皆勤賞の画家です。
遅咲きの画家としても知られています。
ピサロの穏やかな性格を象徴するように、画風も静かで穏やかな風景画が多いです。
アルフレッド・シスレー
シスレーは、主に風景画を描いたことで知られています。
他の印象派の画家たちは、他の画風に移り変わっていく人がほとんどでしたが、シスレーは、生涯、印象派の画風を守りながら、作品を描き続けました。
モネなどと比べると、強いインパクトのある作風ではありませんが、繊細に丁寧なタッチが魅力的な画家です。
全8回の印象派展
それでは、簡単にではありますが、1874年〜1886年までに開催された、全8回の印象派展について、紹介させていただきます。
第1回 1874年4月15日〜5月15日
開催場所 | 写真家 ナダールの元スタジオ |
参加した画家の人数 | 30名 |
主な参加者 | モネ、ピサロ、セザンヌ、ルノワール、シスレー、ドガ、モリゾ |
推定3500名の人が集まり、意外と多くの人が来場したが、評価はよくありませんでした。
批評家のルイ・ルロワは、モネの「印象、日の出」という作品を「まさしく、印象しか描いていない」と酷評しました。
この酷評がきっかけで、モネらのグループは、「印象派」と呼ばれるようになりました。
下の絵が、モネの「印象、日の出」です。
当時は、くっきりはっきり、描くことがほとんどだったので、このような絵は、受け入れがたかったのでしょうね。
第2回 1876年4月11日〜5月9日
開催場所 | 画商 デュラン=リュエルの画廊 |
参加した画家の人数 | 19名 |
主な参加者 | モネ、ピサロ、ルノワール、カイユボット、シスレー、ドガ、モリゾ |
第1回から引き続き、評判は悪いままでした。
先ほど紹介した、ルノワールの「陽光の中の裸婦」や、モネの「ラ・ジャポネーズ」もこの時に発表されました。
第3回 1877年4月4日〜4月30日
開催場所 | ル・ペルティエ通り6番地 |
参加した画家の人数 | 18名 |
主な参加者 | モネ、ピサロ、ルノワール、カイユボット、シスレー、ドガ、モリゾ |
印象派として、最も充実した展覧会との評価をされることもあるのが、この第3回の印象派展です。
ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」や、ドガの「エトワール」や「カフェにて」、モネの「サン・ラザール駅」など、今も名作と呼ばれる多くの作品が出品されました。
第3回 1879年4月9日(10日?)〜5月11日
開催場所 | オペラ座通り28番地のアパルトマン |
参加した画家の人数 | 16名 |
主な参加者 | モネ、ピサロ、カイユボット、カサット、ゴーギャン、ドガ |
この頃から、ドガと他のメンバーとの間に不和が生じます。
シスレー、ルノワール、セザンヌは、生活が貧しく、生活のためサロンに出品し、そのことをドガに激しく非難されます。
そして、この3名は不参加となりました。
モネも生活が苦しく、不参加を決意するのですが、カイユボットという画家が代わりに作品を選んで出品しました。
第5回 1880年4月1日〜4月30日
開催場所 | ピラミッド通り10番地 |
参加した画家の人数 | 18名 |
主な参加者 | ピサロ、カイユボット、カサット、ゴーギャン、ドガ、モリゾ |
第4回印象派展の頃から見られた、グループ内の内部分裂が加速し、モネも不参加となります。
ですので、印象派展と言いながら、印象派色の薄まった展覧会になりました。
第6回 1881年4月2日〜5月1日
開催場所 | 写真家 ナダールの元スタジオ |
参加した画家の人数 | 13名 |
主な参加者 | ピサロ、カサット、ゴーギャン、ドガ、モリゾ |
カイユボットという画家が、第2回印象派展から参加していましたが、第6回開催にあたり、ドガを参加させないようにピサロに提案を行います。
しかし、提案は通らず、カイユボットも印象派グループから去っていくこととなりました。
新聞などの批評も厳しいものが多く、観客も少なくなっていきました。
第7回 1882年3月1日〜不明
開催場所 | サン・トノレ通り251番地パノラマ館 |
参加した画家の人数 | 9名 |
主な参加者 | モネ、ルノワール、カイユボット、ピサロ、ゴーギャン、シスレー、モリゾ |
第7回印象派展は、モネ、ルノワールなどのメンバーが、復帰するのですが、ドガがメンバーから外されてしまいます。
この頃になると、批評家たちの反応も好意的なものが増えていきました。
ルノワールの「船遊びをする人々の昼食」もこの時に出品されました。
第8回 1886年5月15日〜6月15日
開催場所 | ラフィット通り1番地 |
参加した画家の人数 | 17名 |
主な参加者 | ピサロ、ゴーギャン、ドガ、カサット、モリゾ、スーラ、シニャック |
最後の印象派展です。
モネやルノワールは、参加しませんでしたが、スーラ、シニャックといった次世代の画家が参加しました。
これは、スーラとシニャックという画家は、点描画法という小さな点々をいくつも書くような技法を使うのですが、この二人を参加するかどうかで、揉めたことが原因です。
まとめ
今回は、「印象派とは何か」について、解説させていただきました。
難しい単語などもいくつか出たと思うのですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
印象派は、絵画における19世紀末の一大ムーブメントで、それまでのサロンの評価や価値観に疑問を持ち、戸外制作・筆触分割といった方法で、絵画に革命を起こしていきました。
僕も絵画について学びたいことがまだたくさんあります。
一緒に知識を増やしていって、より深くアートを楽しんでいきましょう。